- 2011/12/26
- 標題 お願い 永平寺修行中の戒律・規則について教えてください。
-------------------------------------------------------------------------------- 前略失礼します。 私は三重県の高校で国語教員をしています。 こんな形で突然メールを差し上げて失礼かとも存じましたが、是非お尋ねしお教え頂きたい事が御座いましてメール致しました。失礼の段、どうかお許し下さい。
さて、お教え頂きたいのは、永平寺における戒律もしくは規則のことです。「修行中の少年僧は肉食を禁じられているのか。」という点です。
高校国語の定番教材の一つに、三浦哲郎氏の『とんかつ』という短編作品があります。その末尾に、永平寺で修行を初めて1年ほどたった16才の少年僧の元に母が尋ねてきて、近所の宿で夕食を食べる場面があります。 得度を目指して修行期間中の少年が、母と宿でとんかつを食べる事は、戒律や規則等に禁止・抵触するものでしょうか、ご教示いただけませんでしょうか。 同作は1987年発表、『短篇集モザイク1みちづれ』 (1991.H3.2 新潮社発行)等に収録されています。下記リンクは、三浦哲郎作『とんかつ』全文を掲載した、「三浦哲郎文学を読む会」代表の方のブログです。 http://blogs.yahoo.co.jp/onikosato/26020847.html (Yahoo!ブログ「三浦哲郎文学を読む会」2008.10.15記事「NHK高校講座「とんかつ」」)
以上、はなはだ勝手な質問で誠に恐れ入りますが、ご教示賜りたく伏してお願い申し上げます。 草々
標題 Re: お願い 永平寺修行中の戒律・規則について教えてください。 日時 2011/11/19(土) 23:35
-------------------------------------------------------------------------------- 拝復 曹洞宗 僧侶であります。 お問い合わせいただきありがとうございます。 回答から申し上げれば この少年は 戒律に違反するとまでは 言えません。
永平寺における戒律 とは 曹洞宗における戒律と読み替えて よいのか迷いますが、一般的な僧侶の感覚でお伝えします。 まず、肉食について 永平寺では 禁じられています。そして、永平寺を降りても(出ても)原則的に守っています。 ただ、釈尊までさかのぼれば 肉食を禁じられていたか 判断できません。 と言いますのは、東南アジアでは 托鉢の僧侶の鉢に 肉を入れることもあります。
釈尊は 「あなたの為にこの牛を殺した」などの提供は拒否されたと 伝わりますが、平生は一般の方と同じものを食されたと伝わっています。つまり、仏教の菜食は 中国から始まったと判断してもいいと思います。その中国の僧院でも、病僧等に 肉食を認めていたような 記述もあります。
いわゆる 菜食 精進料理については 仏教の戒律の第一は不殺生戒です。生き物の命を奪うなということです。 しかし、生きるということは 食べること、つまり生き物の命を奪うこと となります。 ですから、不殺生戒は 初めから成り立たない 戒律です。 それでも戒律の第一に挙げられています。 これは 命をいただかなければ生きられない現実に気がつく・・・・つまり殺生をしなければ生きられない存在と覚ることによって・・・生かされている と自覚すること、そこから物を大切にする 命を大切にする もったいない 足る生活 が大切となるのです。
簡単に申し上げれば 永平寺では 食事のたびに 長い経典を 味わうように 読みます。生き物への感謝の述べるのです。一般の方でも 食前に 「いただきます」と言われます。 これは 「命をいただく」 という感謝の言葉と私は解しています。 仏教の様々な 戒律は 極論すれば 破られるために有る そこで 謙虚さと 救いに気付くということでしょうか。
さて、愛着を持つ対象として 動物と 植物 を比すれば 動く 動物に対する思いの方が上と思います。 この愛着 執着 は雲水修行には妨げと考えます。ときには肉体的な性欲も妨げとなるでしょう。(断絶は難しいでしょうが。) 余分な執着は持たない・・・そこで、植物の料理 精進料理が多くなります。 僧院は集団ですから肉食禁止の規範は守り易いかもしれません。
基本的に 修行僧には 肉食は禁じられ(、というよりも 勧めない が正しい)ているといっていいでしょう。
僧院外の場合も原則的に僧院に倣うべきですが、提供された場合は 積極的に 拒むこと が逆に執着となると思います。 この少年が 自ら 求めたのか あるいは与えられたのか これは問題に成ります。
提供いただいたブロクは 残念ながら開けませんでしたので この少年の状況は分りません。 母親がおそらく与えたのでしょう。肉食も出来ないことを 憐れんだのか あるいは好物だったのかもしれません。 与えられた ゆずって 勧められたとすれば むやみに拒否することもなく、破戒とまでは言えないと思います。 積極的に注文したとしたら、永平寺の規範には反するでしょう。
以上 回答として適切か 迷うところですが、肉食 草食に こだわることも執着で、与えられた中で生かされている。極論すれば選択の余地はない。自然に食する。 そして、自分が命を取るにふさわしい存在である・・・・と考えるなら肉食を拒否することもない。 ただ仏教は あなたは動物を殺してまで食する存在ですか と 問うていると思います。 またメールして下さい。
標題 Re: お願い 永平寺修行中の戒律・規則について教えてください。 日時 2011/11/20(日) 23:39 -------------------------------------------------------------------------------- 三浦哲郎「とんかつ」を読みました。 永平寺はほとんど大卒で 中学からすぐに上山するとは よほどの事情があると思っていました。
少年の覚悟と 母親の見送る気持ちはとてもよくわかります。
それと、少年は一年を経過して 確かに骨折したかもしれませんが、そこまでできる自分に自信を持ったのだと思います。永平寺はそんなところです。一年後の少年が 違って見えたのは当然でしょう。 解説では 女将の配慮を 日本的 と書いていましたが、 少年も大人になってきている、自信を持ち始めている。余裕を感じます。
Sent: Tuesday, November 22, 2011 -------------------------------------------------------------------------------- 前略失礼します。 このように早くお返事を頂き、詳しくお教え頂きました事、感激しています。
本当に有難いことで、有道会様のページに出会い、メールして本当に良かったと感謝申し上げます。 「とんかつ」や「おおるり」など、三浦哲郎作品を生徒に教える中で、三浦哲郎に魅かれ、多くの作品を読みました。師(と勝手に書きますがお許し下さい。)のご賢察どおり、「ちくまの教科書・国語通信」の熊倉千之先生の所論を読み、戒律について確かめたく思い、質問させて頂きました。
私はこの作品の隠れた主人公は亡父と考えています。「既に亡くなってこの世にはもういない人とともに(忘れずに)生きる」ことは、仏教の教えにも通じる生き方ではありませんでしょうか。
父の事故死、少年の年齢、女将の人柄、永平寺と一年の修行、この中で一つでも条件が違っていたら、「とんかつ」という作品は成立しなかったと思います。 熊倉氏の読みを否定するのではありません。ただ、成長した息子を見る母は、死んだ夫に自分の目を重ねている、だから「とんかつ」を食べさせたいし、1年前と同じ「とんかつ」だからこそ、母は父に息子の成長した姿を自分の目を通じて報告できる、そんな物語を女将に託して作者は作ったのだと私は思っています。
永平寺のこと、曹洞宗のこと、仏教のこと、お教え下さり有難う御座いました。 今後とも宜しくご教示下さいます様、伏してお願い申し上げます。
----- Original Message ----- Sent: Tuesday, November 22, 2011 11:44 PM Subject: Re: ご相談・お問い合わせ
恐縮しています。 「とんかつ」を僧侶仲間に紹介したところ、自分の思いも重なり、涙ぐむような方も有りました。 ありがとうございます。
永平寺の経験者が涙する 文学はすごい力があると 感じた次第。 最近、先日亡くなったアップル社のジョブス氏が曹洞宗の坐禅をしていたと報道され、私は少しいい気になっていました。ところが、「外から云われて自分のことを知るなんて・・・」と厳しい指摘も受けました。そうです、ジョブス氏の言葉、威光を借りて「禅を語る」のは 少し情けない 話です。 が、「とんかつ」は素直に 永平寺の修行経験者が 涙する 自分ことだからです。そして永平寺で修行されなくともこうして愛読され、親子、人間、ひいては宗教、禅について何も説明しなくて理解できるのですから、文学のすごさを感じます。
よい小説を紹介いただきありがとうございました。 『私はこの作品の隠れた主人公は亡父と考えています。「既に亡くなってこの世にはもういない人とともに(忘れずに)生きる」ことは、仏教の教えにも通じる生き方ではありませんでしょうか。』 とのご指摘、私は納得します。
Sent: Friday, November 25, 2011 11:13 PM Subject: Re: お礼 メール有難う御座います。 『私はこの作品の隠れた主人公は亡父・・・仏教の教えにも通じる生き方ではありませんでしょうか。』と書いた時は自信も半ばでした。ですから、「納得します」と仰って頂き、ほっとしています。仏教者は常に心に仏陀や祖師を意識していると思いますし、それは宗教的で特別なのかもしれませんが、一般人でも「とんかつ」に限らず、女親が息子を見るときなどは、その子に父親(亡き夫)を重ねて見るのはごく自然な事では、と思います。
仏教は生に対する一切の執着を「苦」の因と見る教えだと思います。「生きることは苦」と考える事と、死者をそれを卒業したものとして心の中において忘れず生きることは矛盾しないし、忘れず生きる事で、苦に満ちた生を凛として生き抜く支えにもできる、それが自然だと思えます。そんな文学がたとえば三浦哲郎の自伝的代表作『白夜を旅する人々』であり、『とんかつ』といった小品にもうかがえると思います。申し訳御座いません。またおしゃべりが過ぎてしまいました。どうかお許し下さい。失礼します。早々
----- Original Message ----- Sent: Saturday, November 26, 2011 11:00 PM Subject: Re: お礼
ご連絡ありがとうございます。いつも沁みいるご意見をありがとうございます。
それから、熊倉千之先生の論証ですが、改めて読みました。
実は少し違和感があったのです。もちろん、論証の深さを否定するものではなく、相対的には納得しています。 あえて申し上げれば、作者が 雲水に「とんかつ」を出す女将に 永平寺という倫理的権威に対する挑戦的な「たくらみ」を含ませる という批評は違っている様な気がします。 小説という物語 は 常識越がなければ成り立ちませんので 物語にすることに異議はありません。 と言いますのは、女将は 母親的感覚で 若い者に何を食べさせてらいいか、もちろん一年前のことがベースに有ります から、「とんかつ」を選びました。・・・この感覚は、そこまでです。
「『十六歳の修行僧がとんかつを食べるのを善しとする』、ここには永平寺の権威をものともしない、一人の日本人の秀でた感性がある」等は、熊倉氏の意見で、作者にも果たしてそこまで意識があるのだろうか、疑問です。
理由は、永平寺に修行の経験を持つ者の おそらく全員がこの小説に納得し、「とんかつ」を食した この雲水を積極的に断罪する僧はいない と思われることです。・・・雲水は こうした問題は比較的楽に 乗り越えています。 作者に女将に、そんな意識があれば、この小説がこの者に共感されるとは思えません。
敢えて・・・永平寺の中で この雲水を非難する者がいるとすれば、上山(修行入門)数カ月の者にあるかもしれません。それは、毎日の生活で精一杯、決められたことを履修するだけで精一杯の者に想定外の対応を求めれば、拒否しかありません。・・・・女将の好意は固辞する可能性があると思います。 好物の香りに なごむ顔、黙っていただく、私は彼の成長を感じます。 これは、少しまとめてみたいと思います。 もし、三浦氏の他の小説、あるいは思想書にそのような主張が見られれば 、再考します。
----- Original Message ----- Sent: Sunday, November 27, 2011 12:05 AM Subject: 長文失礼します。その1
いつも有難う御座います。冗文で煩わせ申し上げ、心苦しく存じます。 熊倉氏論文についてのご意見、真に有り難く思います。私にとり三浦哲郎は夏目漱石と並んでほぼ全作品を読んだ重要な作家です。高校の定番教材になりつつある「とんかつ」につき、曹洞宗僧侶の方のご意見は実に貴重で有り難いです。良い教材で良い授業を作り良い若者が育てられたら、教師冥利に尽きます。感謝申し上げます。
熊倉氏の論考について、師の仰る「違和感」、私も同感で意を強くしました。今私は熊倉氏の二つの著書を同時に読み始めています。熊倉氏は漱石についてのユニークな著書もあり、私には興味深い学者です。それと、師が指摘された「三浦哲郎の他の作品も含めての検証」も、重要です。熊倉氏の女将に関する論は妥当性の低い、少し偏った意見と思います。私は「亡き父=影の主人公」説ですが、これも頼りない説です。いずれにせよ、「宿題」として楽しみながら学んでいこうと思います。
私は、師の「とんかつ」についての思い、特に、僧侶のお仲間が読まれて感動なされたお話等をもし三浦哲郎本人が生前耳にされたとしたらどんなに喜ばれた事だろうと思いました。氏の地元で顕彰に尽力されて見える「読む会」の沖野様にコメントで少し知らせしましたところ、本当に喜んでおいででした。
実は一つお願いがございます。「三浦哲郎を読む会」会長の沖野覚様へのメールへの一部引用をお許し願えませんでしょうか。沖野様は三浦文学への並々ならぬ愛情をお持ちです。師と私の往復メールは、沖野様にはきっと励みにも喜びにも感じられる事と思います。合わせてご意向をお聞かせ下さい。
----- Original Message ----- Sent: Tuesday, November 29, 2011 12:52 AM Subject: Re: 長文失礼します。その1
メールの引用 当方のメールは 私の理解する範囲でご連絡いたしたものですが、どのように引用されても 構いません。ただ、文学的な判断はしていませんので、理解不足と 誤字等のフォローはお任せします。僧侶の感想とでもして下さい。
多くの曹洞宗僧侶はこの話に自分を重ねるでしょう。 とんかつを揚げる女将に対する 雲水の合掌ですが、やはり、一年を経た余裕と思います。 私の寺は昭和27年設置と言う保育所を併設しています。女性保育士が「結婚」が決まると、私にお茶をいれてくれたり、妙に気がつくようになるのでする。人の世話をしたいというか、心境の変化です。これも余裕と理解しています。
返信が遅れましたことをお詫びします。
----- Original Message ----- Sent: Tuesday, November 29, 2011 7:26 PM Subject: Re: 長文失礼します。その1
ご返信有難う御座いました。 また、願いをお聞き届け頂き有難う御座いました。
師との往復書簡をまとめたところ、A4で21枚になりました。今日全て読み返しました。私にとりましてたいへん貴重な経験になりました。厚く御礼申し上げます。師の文章を、誤植等一部修正させて頂き、「曹洞宗永平寺修行経験僧侶」の一見解として将来の授業にも活かし、沖野会長にもお伝えし、適宜引用させていただきます。決して師および有道会様ご迷惑の掛かりません様、私の責任において引用させていただきます。
私が最も感銘を受けたのは、師の次のお言葉でした。 「永平寺に修行の経験を持つ者の おそらく全員がこの小説に納得し、「とんかつ」を食した この雲水を積極的に断罪する僧はいない と思われる」 「雲水は こうした問題は比較的楽に 乗り越えています。 作者に女将に、そんな意識があれば、この小説がこの者に共感されるとは思えません。」 本当に有難う御座いました。今後もお導き下さい。師の末永いご活躍とご健康をお祈り申し上げます。 |